
昭和46年2月、手稲この実寮建設の原動力となった保護者の方々の尽力により、札幌市西区西野969番地に、建設用地1,500坪が確保されました。手稲この実寮建設運動が具体的に動き出し、6月に社会福祉法人千歳いずみ学園(理事長伊藤弘)により、精神薄弱者更生施設「手稲この実寮」の建設計画及び運営方針が決定しました。
昭和47年7月、日本自転車振興会の補助金により建設着手。北海道、札幌市、札幌市婦人福祉推進協会などからの補助を始め、沢山の方々から補助が寄せられました。
昭和48年1月、重度者を中心とした定員30名の「手稲この実寮」開設。20名からスタートし、4月に30名となりました。施設が大規模化へ向っている時代に、家庭的な雰囲気の中で「ごく普通の暮らし」を実現したいとの強い想いのなかで歩みが始まったのです。
1月8日の開所式後、多くのお母さんが、泊まり込んだりしながら炊事や洗濯の手伝いをし70歳を超えた父親も近くに部屋を借り、職員と一緒に暮らしを支えてくれました。素人集団の職員と保護者が、本人を主体とした生活施設の基礎を築くことになりました。
写真下:手稲この実寮開所式の様子
家庭から入所した利用者が多く、体力づくりや経験・体験を重ねる事と作業を地域へ展開することが始まりました。仕事(日中活動)と暮らしを分離することで生活に変化をもたらすことができたのです。(土地、建物、設備、なにもなかったので外へ出るしかありませんでした)
昭和49年5月、保護者の助言により、開設したての平和霊園へ試験的に石拾いなどの奉仕作業を始めたことが、その後の平岸霊園、宮丘公園、旧設墓地等の清掃管理作業へとつながりました。
昭和50年11月、「第1回この実寮祭」が地域、協力者の方々が多数来察して行われました。型を変えながら長く行われる行事が生まれたのもこの頃です。
平和・平岸霊園は、社会自立へ向けた職業訓練の場でした。昭和52年1月、霊園の実習を経て1名が一般企業へ通年実習(54年正規採用)に出ました。その後、平成3年に業務拡大による霊園作業終了まで数名が霊園実習を経て就職することができたのです。同年12月、自分たちで地域に返せることがないかと独居老人除雪を始め、形を変えながら現在も継続しています。
昭和54年2月、初めての道外旅行で伊豆大島へ。帰ってきたとたん「楽しかったよ。今度いつ行くの?仕事がんばるから」と。それから「旅行いくので、仕事がんばるよ」が合言葉となりました。その後3年に1度位で道外や海外に行くこととなりました。
10月、社会福祉法人千歳いずみ学園より法人分離し、新たに社会福祉法人札幌この実会となり、理事長新谷利治、寮長加藤孝が就任しました。
手稲この実寮開所当初から、家庭的な普通の暮らしを目指す中で、少人数で暮らす「家庭寮」の考えがありました。30人よりは20人、住宅で就職した3人が暮らしましたが、施設敷地内では、やはり集団生活にすぎませんでした。昭和57年4月、西区山の手の住宅地に「さざ波寮」を開設し、地域生活の第一歩を踏み出します。小さな波紋がさざ波のように広がることを願っての命名でした。(職員の大波が住み込みを行ったのですが、大波寮では転覆してしまうとの影の声あり)
札幌市内でノビロ学園、三和荘、この実寮、そして親の会の四者で生活寮連絡協議会を作り、運動を行っていましたが、昭和59年10月「さざ波寮」道の制度生活寮運営費補助制度の第1号となりました。4~5名で年1,056,000円でした。
昭和60年3月、西区西野近辺で中学を卒業した生徒の行き先がないため、西野二股へ移転した「さざ波寮」を使い小規模授産所を開設しました。
北海道の生活寮を参考とした国のグループホーム制度が平成元年4月スタートしましたが、就労者対応であるため、生活寮「さざ波寮」を「グルッペ101」と改名してグループホームとしました。当時この実会利用者の総数が101名であったことも命名の由来となりました。以後しばらくの間グループホームは番号で統一、生活寮は重度者の利用が可能なことから場所をかえ継続されました。同年7月、盤渓の山林2万坪が山科アキさんより寄贈。障害のある人たちの作業訓練の場として、子どもやお年寄りには森林浴やレクリェーションの場として福祉の役に立ててほしいとの意向でした。
南区北ノ沢は昭和57年札幌市から訓練用地として6,000坪(現7,000坪)を無償貸与され、手稲この実寮の寮生と地域の方々の協力を得ながら開墾してきましたが、立派に北の沢農場として、色々な作物を育て収穫するまでになりました。
平成元年4月、この農場を利用して、養護学校や特学を卒業したけれど行き場のない10名を受け入れ、アパートの一室で「共同作業所フレンド89」を立ち上げました。
平成元年12月、札幌市の要望もあり、北の沢農場に日本自転車振興会の補助を受け、共同作業所フレンド89を母体とし、30名定員の通所更生施設「北の沢デイセンター」を開設したのです。
かねてより、重度・高齢・病弱に対する勉強会を保護者と職員が行っていましたが、平成4年、事業として日本自転車振興会の補助を受け、南区北ノ沢に30名の高齢者を中心とした重度棟として建てることが決まりました。空いた所へ家庭の都合で入所を利用する通所者、小規模利用者、在宅者を受け入れる準備を行いました。
平成5年2月、昭和48年開設時から利用していた寮生を中心に、第2この実寮へ移ることにより、暮らす場所の再編成を行ったのです。
平成5年2月、雪深い厳寒の中、手稲この実寮開設時からの利用者を中心とした30名が重度棟として建設された「第2この実寮」に移りました。バリアフリー、エレベーター、特殊浴槽等、考えられる設備を備え、5年後に増えるであろう介護を見据えた建物でした。教育、訓練ではなく、生きがいとしての暮らしと活動を支え、長い生涯を支えることを目的としました。
平成5年4月、北の沢デイセンターの通所を支える「グループホーム505」を開設しました。
平成6年、グループホーム、生活寮、自主事業を各1か所ずつ増やし、時代に先がけ自主事業として西区・手稲区の在宅の仲間たちを含めた生活支援を行う「生活支援センター」を立ち上げました。この年から2名がアパート暮らしを始めま平成7年4月、緑の日を記念して、15年続けている宮丘公園清掃事業に対し建設大臣賞を受けました。これらの作業を通し、体力、働く意欲を高め、一般企業への就職にも繋がったのです。
生活支援センターで相談業務を行っていましたが、「通勤寮」に付属しなければ制度として認められず、自主事業としていました。平成8年、札幌市より西区二十四軒の市有地を借り、国庫補助を受け、1階に老人のデイサービス、2階に通勤寮を建てました。
平成9年1月、札幌この実会センター24開設。西区西野平和地区のグループホーム・生活寮を利用している就労者が、地下鉄琴似駅近くのマンションを利用したグループホームに移りました。
グループホーム等であった空いた建物は、分寮として利用することにより、入所施設本体の人数を減らし、4人部屋を2人部屋、1人部屋へと人数を減らすことができました。
平成9年10月、西区平和に地域交流ホーム(山科記念研修センター)を開設し、地域にも開放されました。
平成10年10月、平成12年10月、センター24でグループホームを新設しました。
平成10年、受け入れ先を探す本人や保護者、学校からの問い合わせが多くあったが、建物にも職員にも受け入れる余裕がない北の沢デイセンターが、交通の便が良い中央区南9条に古い建物で分場と新しい事業の準備を始めました。
平成11年4月、定員10名の北の沢デイセンター中央区分場開設。平成11年10月、心から安心してもらえるサービスをしようと、よろずお引き受けセンターとして中央区サポートセンター「い~ない~ず」を開設しました。
平成13年12月、日本自転車振興会の補助を受け、この実サポートステーションが開設。30名の通所授産施設「はた・ら~く」、いつでも在宅しながら利用できる短期入所専用棟「りらっく」一棟と、手稲この実寮の分寮として二棟を建設しました。一棟「すいんぐ」はこだわりの強い寮生の暮しを想定した建物・設備とし、もう一棟「すきっぷ」は入所から地域生活へのトレーニング棟としました。
平成14年、保護者や本人に対して、入所しなくとも将来の暮らし方の方向性を示す目的で、学齢児を対象とした作業・宿泊体験学習を学校の長期休みを利用して行いました。同じく学齢児に対し、学校の週休2日制の完全実施に伴い土曜日の余暇活動を「あそび虫クラブ」として提供しました。
平成15年、支援費制度施行。7月、い〜な・い~ずは居宅介護事業所として認可されました。10月にはグループホーム「お達者倶楽部」が開設されました。
平成16年、南区川沿の商店街に自立トライセンター「ちゃれんじ」を開設。12月、日本財団の助成により、南9条通サポートセンター建て替え工事をしました。
平成16年、手稲この実寮利用者を分寮・分棟の形で西区西野・平和地区に分散していく中で、地域生活支援の拠点の必要性を痛感しました。この地に出て20年以上の歳月が経ち、地域がなじんでくれたこともあり、平成17年自転車振興会の補助により「サテライト2・6」を建設し、平成18年1月開所しました。専属職員を配置して、1階は地域生活支援センター2階は6名が、本格的な地域生活練習の場として活用しました。このことにより、入所定員を50名から44名に減らしました。
平成19年、障害者自立支援法の説明会を何度も開き、定員減のまま入所を残すのか、それともこれまでの地域での分寮をケアホームに切り替え廃止するのか、保護者と協議を重ねていました。秋、分寮を利用している寮生を集め、ひとり1人から聞くと、「このまま、地域で暮らしたい」「コンビニのそばがいい」「バス停に近いこのままがいい」「もう山には戻りたくない」という意見が、廃止が決まった瞬間でした。
平成19年4月、ひとり1人に合わせた有期限・有目的で通称「僕たちの短大」発足。多様な日中活動を通し企業就職をめざしたのです。
「あそこに手稲この実寮があったとさ」「こんな生活をしていたんだ」と伝えるために、かつての居室を利用した資料室には、昭和時代の懐かしい写真、歴史的資料を展示しています。そして暮らしを再現した4人部屋では、実際に布団を敷き「あなたは、この部屋で住めると思いますか」と問いかけています。
平成20年3月、入所施設「手稲この実寮」廃止。4月より日中活動部門を「この実わーくネット」就労継続支援B型と就労移行事業としました。また、地域での暮らしの部門を「この実らいふネット」としました。
平成18年4月、在宅支援の1つの柱として、南9条サポートセンターに居宅介護事業所「ばでぃ」を開設。同年5月、南区川沿の自立トライセンターちゃれんじに居宅介護事業所「みんな・み~な」を開設しました。そして10月、障害者自立支援法第二次施行により、従来のグループホームはケアホームとして再編されたのです。
平成20年2月、東海大学と共同で「地域交流・情報発信・地産地消」を目的としたコミュニティスペース「旧道茶屋」をちゃれんじ内に開設しました。
地域生活支援センター「サテライト2・6」を中心として、バス通り近くにケアホームを展開しています。平成20年に国が初めてケアホーム・グループホームの新築に補助制度を創設しましたが、札幌の第1号として平成21年1月、ケアホーム「きらり」を開設。平成22年、大家さんがバリアフリー住宅を新築してくださりケアホーム「さざ波寮」となりました。
平成21年、地域住民よりの要望で、畑起こし、庭木の剪定、除雪等を行う作業班「おまかせ屋」が発足。地域との交流、働く場、訓練の場として「ラーメン屋みらくる」開店。朝市には近所から大勢の人達が来てくれ、すぐに売り切れてしまうほどの盛況です。安心して暮らせる町に彼らが変えてくれたのです。地域に慣れ、地域がなじむ町に。
適正規模100人。
大きくなりすぎると組織が複雑になり、共通認識を持ち意思統一を図るまでに時間がかかりますし、本人達だけではなくその家族の思いや顔も見えなくなってしまします。
そのような観点から、平成21年に南9条サポートセンターが「社会福祉法人あむ」として、平成23年にセンター24が「社会福祉法人NIKORI」として独立しました。
平成22年9月、木造公共施設等整備事業の補助金を受け、地域交流を目的とした「北の沢デイセンター交流多目的施設」を建築しました。同じく9月、札幌市緑化事業・さっぽろガーデンシティ活動事業助成金を受け、誰もが散策できる「北の沢コミュニティガーデンみんなの丘」を整備しました。10月にはケアホーム利用者を中心に日中活動を支援する「地域活動センターさん・れすと」を開設しました。

平成28年10月、3度目の法人分離として、札幌市南区藻岩地区を拠点とした「社会福祉法人藻岩この実会」が誕生しました。
設立に至った背景には、
①札幌市内で最も高齢化率が高い地域
②老々介護や男性介護等の介護問題に対する関心度も高い地域
③学校教育環境、専門職育成等の教育環境が整っている地域
といった特徴が示す地域性を地域住民のニーズに置き換えて、障がいの有無や種別を問わず、福祉サービスの必要な人たちの早期発見等、福祉サービスや医療ケアへの橋渡し、福祉人材育成等の事業を私たちが得意とする障がい福祉事業に付加することによって地域の福祉力を支えたいという想いからでした。
こうして社会福祉法人藻岩この実会が誕生し、札幌この実会は西ブロックのみとなりました。その西ブロックでは創業時の建物、旧手稲この実寮1寮を全部取り壊す決断をしました。
就労支援が必要な若い世代の一方で高齢化が進んでおり、求められる役割・機能をより明確にし、一人ひとりのライフステージに応じて適切な支援ができる体制を整えるため、平成30年4月よりこの実わーくネットを就労継続支援B型事業所から多機能型事業所へ変更しました。
若い世代を中心にした就労支援事業を西区琴似で新たにスタートさせる一方で、既存事業は高齢になってきた人たちを中心に生活介護へと切り替えました。
(生活介護・就労継続支援B型)
利用者の高齢化が進むなか、どこにどんな役割・機能を持たせるかを整理し、これからの地域の暮らしのあり方について検討しました。
その結果、サテライト2・6及び隣接地をグループホームから日中活動の場に変更し、併せて地域住民と交流・連携ができる場を作りました。グループホームは、利用者の高齢化、通所の受け入れを考え合わせると、今後も地域の暮らしの支援を継続するために、日中サービス支援型グループホームとして20名規模の建物もやむを得ないとの結論に至り、令和元年12月「この実みなぽっけ」を開設しました。
(この実みなぽっけ)